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盂蘭盆の晩に


 今までは清も僕もしずかにあるきながら話して来たのだが、話がここまで進んで来ると、彼はもう歩かれなくなったらしい。路ばたに立ちどまって話しつづけた。
「君は海亀だろうと無雑作むぞうさにいうが、その海亀がおそろしい。僕も一時の錯覚から眼が醒めて、人魚の正体は海亀であることを発見したが、美智子さんはやはり人魚だというのだ。まあそれはそれとして、僕に異常の恐怖をあたえたのは、その海亀が浪のあいだから最初は一匹、つづいて二匹、三匹……。五匹……。十匹……。だんだんに現われて来て、僕たちの舟を取囲んでしまったのだ。海はおだやかで、波はほとんど動かない。その渺茫びょうぼうたる海の上で、美智子さんと僕のふたりは海亀の群れに包囲されて、どうしていいかわからなくなった。
 一体かれらは僕たちの舟を囲んでどうするつもりかと見ていると、小さい海亀がまた続々あらわれて来て、僕たちの舟へ這いあがって来るのだ。平生ならば、小さな海亀などは別に問題にもならないのだが、美智子さんは無暗に怖がる、僕もなんだか不安に堪えられなくなって、手あたり次第にその亀を引っ掴んで、海のなかへ投げこんだ。ただ投げ込むばかりでなく、それを礫つぶてにして大きい奴にたたきつけて、一方の血路をひらこうと考えたのだ。それは相当に成功したらしいが、何をいうにも敵は大勢だ。小さい舟の右から左から、艫ともからも舳みよしからも、大小の海亀がぞろぞろ這いこんで来る。かれらは僕たちを啖くらうつもりだろうか。ここらの海亀は蝦や蟹を啖うが、人間を啖ったという話をきかない。しかしこんなに多数の海亀に襲われると、僕たちも危険を感ぜずにはいられなくなった。僕もしまいには闘い疲れてしまった。美智子さんはもう死んだようになっている。かれらはほとんど無数というほどに増加して、舟の周囲に一面の甲羅をならべたのが月の光りにかがやいて見える……。君がこういう奇異に遭遇したらどうするか。僕は疲労と恐怖で身動きも出来なくなった。」
 成程これは困ったに相違ないと、僕も同情した。同情を通り越して、僕もなんだが体の血が冷たくなったように感じられて来た。おそらく顔の色も幾分か変ったかも知れない。
「その場合、君にしても櫂を取って防ぐくらいの知恵しか出ないだろう。」と、清はあざわらうように言った。「そんな常識的な防禦法で、この怪物……人魚以上の怪物が撃退されると思うか。駄目だ、駄目だ。精神的にも肉体的にも戦闘能力を全然奪われてしまって、僕は敗軍の兵卒のようにただ茫然としているあいだに、無数の敵は四方から僕の舟に乗込んで来た。どういうふうに攀よじのぼって来たのか、僕もよく知らないが、ともかくも続々乗込んで来たのだ。こうなると、誰にでも考えられることは海亀の重量だ。大きい海亀は何貫目の重量があるか、君も知っているだろう。それが無数に乗込んで来て、しかも一匹の甲羅の上に他の一匹が乗る、又その上に一匹が乗るという始末で、かさなりあって乗るのだから堪たまらない。大石を積んだ小舟とおなじように、僕たちの舟はだんだんに沈んで行くのほかはない。無益とは知りながら、僕は血の出るような声を振りしぼって救いを呼びつづけたが、なにぶんにも岸は遠い。僕が必死の叫び声も、いたずらに水にひびいて消えてゆくばかりだ。これが平生の夜ならば、沖に相当の漁船も出ているのだが、いかんせん今夜は例の迷信で、広い海に一艘の舟も見えない。浜の者どもは盆踊りで夢中になっているらしい。僕たちが必死に苦しみもがいているのを、黙って眺めているのは今夜の月と星ばかりだ。僕たちの無抵抗をあざけるように、敵はいよいよ乗込んで来る。舟は重くなる。舟舷ふなべりから潮水がだんだんに流れ込んで来る。最後の運命はもう判り切っているので、僕は観念の眼をとじて美智子さんを両手にしっかりと抱いた。子供の時からこの海岸に育った僕だ。これが僕一個であったらば、たとい岸が遠いにもしろ、この場合、運命を賭して泳ぐということもあるが、美智子さんを捨ててゆくことはできない。二人が抱き合ったままで、舟と共に沈もうと決心して……。これも一種の心中だと思って……。それからさきは夢うつつで……。」
「そうすると、結局は舟が沈んで……。ニューバランス1400君だけが助かって、妹は死んだというわけだね。」
「残念ながら事実はそうだ。」と、清は苦しそうな息をついた。「おそろしい悪夢からさめた時には、僕たちふたりは浜辺に引揚げられていた。あとで聞くと、僕たちの帰りの遅いのを心配して、番頭の万兵衛がまず騒ぎだして、捜索の舟を出してくれたので、海のなかに浮きつ沈みつ漂っている僕たちが救われたというわけだ。なんといっても僕は水ごころがあるから、たくさんの水を飲まなかったので容易に恢復したが、美智子さんはだめだった。いろいろ手を尽くしたが、どうしても息が出ないのだ。こんなことになるなら、僕もいっそ恢復しない方がましだったのだ。なまじい助けられたのが残念でならない。僕たちの小舟はあくる朝、遠い沖で発見されたが、海亀はどうしてしまったか一匹も見えなかったそうだ。」
「死んだものは、まあ仕方がないとして、君のからだはその後どうなのだ。もう出歩いてもいいのか。」と、僕は慰めるように訊いた。
「僕はその翌日寝ただけで、もう心配するようなことはない。美智子さんの葬式にもぜひ参列したいと思ったのだが、みんなに止められて拠よんどころなく見合せたので、きょうは思い切って墓参りに出て来たのだ。幾度いっても同じことだが、僕は生きたのが幸か不幸かわからない。僕は昔からの迷信を裏書きするために、美智子さんを犠牲にしたようなものだ。」
 彼の蒼白い頬には涙がながれていた。
「僕も迷信者になりたくない。それは美智子の言った通り、君たちが不幸にして偶然の出来事に出逢ったのだ。」と、僕はふたたび慰めるように言った。

 この話はこれぎりだ。盂蘭盆の晩に舟 http://www.newbalancejptop.com/を出すとか出さないとかいうのは、もちろん迷信に相違ないが、海亀の群れがなぜその舟を沈めに来たのか、それは判らない。かれらは時々に水を出て甲をほす習慣があるから、そんなつもりで舟へ這いあがったのかとも思われるが、正覚坊しょうがくぼう[#「正覚坊」は底本では「正坊覚」]に舟を沈められたというような話はかつて聞いたことがないと、土地の故老が言っていた。更にかんがえると、普通の亀ならば格別、海亀が船中に這い込んだというのは僕の腑に落ちかねるが、なにぶん現場を目撃したのでないから、ともかくも本人の直話を信用するのほかはなかった。
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