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無題


 生と死は紙一枚の差だ。天と地の間にこれ以上怪奇な事実はあるまい。
 そしてその怪奇な事実を時として最も端的に示すものに、海洋ほど不遠慮な存在はないのだ。この意味で、海こそは一番の怪奇を包蔵すると云い得る。
 タイタニック号―― The Titanic ――の難船実話である。
 モザイク風に、凡ゆる角度から、出来るだけ忠実に詳細に記述して行きたい。

 橄欖
オリイブ
色の皮膚をした仏蘭西人の赤ん坊が二人、船室備付の洗濯籠に入れられ、大きな扉
ドア
に乗って波の上を漂っている処を奇蹟的に救助された。名前を訊くと、覚束ない舌で一人は Louis 他は Lolo と答えるだけで、姓は判らない。日本の迷い児が交番で正雄ちゃんだの、みいちゃんだのと申立てるようなもので、これは正に国際的な、そして泪ぐましい海の迷い児である。ルイにロロ――二人とも可愛い男の子で兄弟だった。
 生存者の間を色いろ訊いてみても、何うしても誰の子供かわからないので、欧米の各主要新聞に毎日このルイとロロの写真を掲載して広く心当りの人に名乗り出ることを求めた。すると一月程して南仏蘭西のニイスから、Navratil 夫人という二十一になる女が、確かに写真の兄弟は自分の子供であると言って現れた。良人が彼女を捨て、子供を伴れて、逃げてそちこち捜していたところだという。他に証人も出て来て、調べてみるとそれに違いない。ナヴラティル夫人は狂気のように紐育へ急行してルイとロロを受取った。船客名簿を照合してみると、逃げた良人というのが変名で船室を取って、二人を伴って亜米利加へ渡ろうとしたのだった。この良人は溺死して、兄弟の幼児だけ不思議に助かったのである。このナヴラティル夫人の物語は、数多い遭難哀話中のナンバア?ワンとして、タイタニックの名の記憶される限り残るであろう。
 後で、査問会や其の他到るところで、生き残った人々の間に凡ゆる醜い中傷讒誣が投げ交された。「あの男は斯うこういう非人道なことをして助かったのだ」とか、「あいつは悪魔のように暴れて女や子供を海へ抛り込んで、自分がボウトへ飛び乗った」とか、相当の人々が、あること無いことを言い合って、暫らく泥試合を続けたものだった。
「生存者の中の或る人々は、誰が企らんだともなく、社会の嘲笑の的にされてしまいました」レディ?ダフ?ゴルドンが後日語っている。「しかしこれは、船会社が一つの目的をもって計画的にやったことなのです。後に判りました。ああいう場合ですから何れも見て来たような、色んな臆説が生れますが、会社側の策士がそれを利用して、生存者を互いに突つかせて世間の注意をそっちへ向けようとしたのでした。救命艇が尠かったこと、船員の間に救助作業の組織的な訓練が出来ていなかったこと、これは会社として世界に顔向けの出来ない犯罪的な責任ですから、どさくさ紛れに他に世間の注意を外らして一時誤魔化そうとしたのです。それがために、非常に卑怯な行為があったように言われて、殆んど社会から葬られかけた名士などもありましたが、日が経つにつれて真相が判明して、それらの人々の汚名は雪
そそ
がれました。が、はじめ会社の放った宣伝が効を奏して、根本の難船よりもその方が大きなセンセイションになったので一時注意を他へ外らすという目的は立派に達しられた訳です――」
 この十九年前の悲劇とその後日物語が世界の海運界に与えた教訓は、第一に、絶対に沈まない船などというものは、それこそ絶対にあり得ない。第二、社交室の椅子のクッションや上甲板のテニス?コウトよりも、何よりも完全な救命艇を充分備うべきである。第三に、貴婦人相手のダンスの礼儀も大事だが、先ず乗組員の短艇
ボウト
訓練をおろそかにしないこと。ニューバランス スニーカーしかしこの千五百の生霊と夥しい財物を犠牲にして得た人類の教訓は、その後果して忘れられずに、航海という神秘的な事業に従事する人々の間に胆に銘じていると言えるだろうか。最早や既に「タイタニックの遭難」は、一つの色の褪せた伝説になっているのではなかろうか。

 当時或る左翼の新聞が、三等船客は全部ピストルで救命艇
ライフ?ボート
[#ルビの「ライフ?ボート」は底本では「ラフイ?ボート」]から遠ざけられ、一等船客中の大富豪とその家族にのみ第一の機会が与えられたと報道して大分問題になったことがあるが、これは斯ういう場合、恐らく事実ではあるまい。誰もが均一に直面しなければならない生死の境いである。食後のデミタスを片手に、長いホウルダアにベンソン?ヘッジスをくゆらして給仕を頤で使っていた紳士と、その給仕とが、ここに同じ人間として、各自じぶんの生命を、自分のそして自分だけの力で守り通さなければならない対等の立場に置かれたのだ。其処にはもう金力も社会的地位もない。あるのは只、各人の体力と勇敢さだけだ。この、厳重に守られて滑らかに動いているように見える社会制度上の区別――約束が、一瞬にして破壊され、顛倒して、皆がみな、自分一個の腕力と気力で自分と自分の愛する者を守らなければならない原始人に還元させられる――難船ということは、考えてみると、革命のように悲壮でもあり、しかし一方大いに痛快でもある。
 紳士階級は女の腰へ手を廻して舞踏室
ボウル?ルウム
の床を辷りながら、タキシイドの膝にちょっぴり落ちた葉巻の灰を気にしている。或いは赤い太い頚を甲板椅子の毛布に包んで、旅行秘書
トラヴェリング?セクレタリイ
が刻々無電室から報告して来る株の上下によって大西洋上からウォウル街に売った買ったの指命を発している――。
 その時、「地獄
ダウン?ビロウ
」の釜前では、海の野獣と言われる火夫や石炭夫達が、筋肉を資本に、火の出るような激しい労働だ。彼らが甲板に現れて一等船客の眼にでも触れようものなら、女たちは眉をひそめ、紳士連は眼ざわりとして船長を難詰するだろう。これが謂わゆる社会生活の正規の常態なら、その規約は、いま完全に逆転されたのだ。Every body for himself ――こうなると、ライタアやゴルフ?クラブ――尤も当時まだライタアはなかったが――より他重い物一つ持ったことのない紳士連中と、四六時中生命を的の仕事をしている水火夫達と、何方が沈着に、どっちが英雄的に、そして何方が生き抜く力を有っていたか。若しここに冷静な女性があって、この場合の「紳士」と「野獣」を比較したなら、果して何方がより強く、より美しく、より頼母しく見えたことだろう。
 今まで自分の手足のように感じていたボウイや下級船員が急に圧倒的に優勢な存在となって、じぶんたちは彼らの下位に置かれ、彼らの指揮で動き、彼らの恩恵によってのみ自分の生命を完うする途が開かれる。しかも、この場になって自分を助けるものは金でも社会的名声でもなく、 http://www.newbalancejptop.com/この真っ裸かになった自分一個の気力と腕力だけだと知ったときの、紳士達の愕ろきはさぞ大きかったろう。難船のおどろきよりも、この発見の驚きのほうが彼らを顛倒させたに相違ない。
 船員が多額の金を取って、救命艇を富豪の船客に売って先に逃がしたなどという噂は、事実あり得ないことだし、その浮説を逆証するに十分な有名な金持ちの船客が片端しから死んでいるのだ。
 ジョン?ジャコブ?アスタア氏―― Mr. John Jacob Astor は、そのアスタアという姓でも判る通りに、紐育一流の名家の一族で、百万長者
ミリオネア
を三十倍した程の同市の大富豪である。それから Mr. George O. Widener ――ジョウジ?オ?ワイドナア氏、これが一千九百万磅というから一磅十円として約一億九千万円の大分限者、Mr. Benjamin Guggenheim がこのワイドナアとざっと同列、次ぎに Washington Poebling と Isador Straus の両氏が八百万弗――この連中がみんなやられている。
 乗組員は上下を通じて、英国海員が伝統的に血に持つ沈着と機敏と勇敢さをもって一糸乱れずに行動したと言われている。彼らの間には何の恐慌もなかった。恐慌
パニック
が起ることを許さなかったというのだ。最後のボウトが本船を離れるまで、船員は各自努めて微笑を続けていた――ことになっているが、これも事実は、かなり泡を食って船客の信頼を失い、ために船客の恐怖が暴動化して一層救助作業の運行を困難ならしめた跡が多分に見られるのである。




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