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将軍?徳川秀忠、没する日

382年前の今日(旧暦)、江戸幕府の
第2代将軍?徳川秀忠(ひでただ)
が亡くなった。
徳川家康と側室の西郷局の間に
三男として遠江?浜松城で誕生した秀忠。
幼名は長丸。元服後、秀吉から一字を
もらって秀忠と名乗り、その養女である
江(ごう)をめとっている。
長兄の信康は秀忠が生まれた年に亡くなり、
次兄の秀康は結城家へ養子入りしたので、
三男ながら家康の後継者として育てられた。
秀忠はニューバランス 574、天下分け目の関ヶ原の戦いに
遅刻するなど、軍才には欠けるところも
あったが、父?家康に早くから政治の才能は
認められていたようである。
実際、家康が将軍になってから
2年後(1605年)に早くも
その座を譲られている。
「大坂の陣」で豊臣家を滅ぼした
翌年(1616年)、父?家康は死去。
秀忠は創設まもない幕府権力の強化につとめ、
多くの外様大名を改易、親藩や譜代の大名に
要地を与えた。鎖国政策や大奥の制定などの
原型を作るなど、後世の将軍とは異なり、
政策の多くを自身で決済した。
元和9年(1623年)に将軍職を
嫡男?家光に譲るが、大御所として
江戸城西の丸で引き続き実権を握った。
しかし、まだ働き盛りともいえた
寛永9年(1632年)年1月、病に倒れた。
54歳。胃がんだったとされる。
秀忠は
「葬儀?法会とも倹約を旨とし、
霊牌のほか新しく作るべからず」
と言い残していたため密葬とされ、
芝の増上寺(東京都港区)に運ばれ
土葬された。
ただ、墓所は壮麗なものが設けられ、
台徳院霊廟として増上寺のすぐ脇に
建っていたが、第二次世界大戦のときの
東京空襲で焼失した。
昭和33年(1958)に、増上寺の周辺一帯に
あった歴代将軍の霊廟跡を本堂の近くに
移築することになり、焼失後に埋もれていた
秀忠の墓所も発掘調査が行なわれた。
秀忠は縦長で長方形のヒノキ製の棺に
座った姿で納められていた。錫と太刀、
鉄砲1挺、香炉などが副葬品として
置かれていた。ただ、棺の中に詰められた
小石の重みによって遺骨は縦に圧縮され、
変形してしまっていたという。
毛髪などを調査した結果、血液型はO型で、
推定身長は158cm前後と判明。
体格は筋肉質で、銃創の痕跡も認められるなど
数多の戦場を潜り抜けてきた
戦国武将らしい遺骨であった。
遺骨は桐ヶ谷斎場で荼毘に付されて
改葬されニューバランス 996、現在は増上寺本道の横にある
将軍家墓所に、妻の江とともに眠っている。
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