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さて、僕は近来益々「言説」の無力さ無意味さを痛感する。よしんば、その言説がどの様に正しくても、それが言説だけとして存在している限り、殆んど何の役にも立たない。場合に依って徒らに世間を騒々しくさせるだけだと言う意味で有害でさえあると思う。要は身を以て実行することにある。また、身を以て実行していれば、その余のことを、あげつらっている暇は無いのだ。
俳句と云ものを始て見たのは十五六歳の時であつたと思ふ。父と東京へ出て来て向嶋に住んでゐる所へ、母や弟妹が津和野の家を引き払つて這入り込んで来た。その時蔵書丈は売らずに持つて来たが、歌の本では、橘守部の「心の種」、流布本の「古今集」、詩の本では「唐詩選」があつた。俳諧の本は、誰やらが蕉門の句を集めた類題の零本で、秋冬の部丈があつた。表紙も何もなくなつてゐて、初の一枚には立秋の句があつたのを記憶してゐる。さう云ふ本を好奇心から読み出した。丁度進文学社と云ふ学校で独逸語を学んでゐた片手間であつた。其頃向嶋で交際してゐた友達は、伊藤孫一といふ漢学好きの少年一人であつたので、詩が一番好きであつた。尤も国にゐた時七絶を並べて見る稽古をしたこともあつたのである。唐詩選の中の多くの詩は諳んじてゐた。
近頃の若い人達は、もうこんな言葉は使はないかもしれないが、それでも、言葉そのものは、まだなくなつてはゐない。「あの男はハイカラだ」といへば、その男がどういふ風な男であるかは問題ではなく、寧ろ、さういふことをいふ人間が、どんな人間であるかを知りたいほどの時代になつてゐるのかもしれない。一体、この「ハイカラ」といふ言葉は、だれがどういふ機会に作りだし、いつ頃世間でもつとも流行したのであるか、私は記憶しないのであるが、なんでもその当時、洋服に「高いカラアをつけてゐる男」は、一般に「低いカラアをつけてゐる男」よりも、「ハイカラ」であつたに違ひない。これは、西洋でもさうなのであるか、私の観察するところでは、必ずしもさうだとは思へないが、洋服を着ることだけでもまだ珍しかつた時代の日本では、たしかに「高いカラア」をつけることが、いはゆる「ハイカラ」であつたに違ひない。
おそらく、十代二十代の人には一笑にも値しまい。けれど私たちの年齢の者は、平凡なはなしだが、「ああ、元日か」の感慨を年々またあらたにする。昨日の歴史、あの戦中戦後を通って来て、生ける身を、ふしぎに思うからである。そこで去年(昭和三十二年)の正月の試筆には、戯れ半分に「元日や今年もどうぞ女房どの」などという句を色紙にかけて拝むことにしておいた。すると升田幸三氏やら誰やら、つね日ごろ女房泣かせの輩が来ては「おれにも書いてくれ」と請われるまま、ついトソ気分で、おなじ句を何枚も人に書いてやった。ところが中にはそんな甘い文句の家庭円満剤では何の効き目もないらしい呑ンべな亭主どのもあったので、そんな人へは特に「これは細君に上げ給え」といってはべつな句をこう書いてあげた。
水莽という草は毒草である。葛のように蔓生しているもので、花は扁豆の花に似て紫である。もし人が誤って食うようなことでもあるとたちどころに死んだ。そして、その水莽草を食って死んだ者の鬼を水莽鬼というのであるが、言い伝えによると、この鬼は輪廻を得て来世に生れてくることができないので、その草を食って死ぬる者のあるのを待っていて自分の代りにし、それによって生れ代るといわれている。それ故に水莽草の多い楚中の桃花江一帯には、この鬼が最も多いとのことであった。
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