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競馬

 競馬場がふえ、競馬ファンもふえてきた。応接間の座談として、競馬が語られる時代がきた。その中で、時々、知人のあいだにも、楽しみを楽しまざる人がまま多い。――競馬を苦しむ方の人である。このあいだも、某社の、記者としても人間としても、有能な若い人だが、競馬に熱中して、社にも負債を生じ、家庭にも困らせている人があるという話が出て――僕はその若い有能な雑誌記者を惜しむのあまり、その人は知らないが、忠告のてがみを送ろうとおもって、客に、姓名まで書いておいてもらったが、やはり未知の者へ、いきなりそんな手紙をやるのもためらわれ、必ず他にも近頃は同病の士も多かろうとおもって、ここに書くことにした。――といっても、僕自身、競馬は好きなのであるから、単に、競馬の(へい)を説くのではない。

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芸術と数学及び科学

 

われらは今この表題を掲げて少しばかり見るところを説きたい。人あるいはいうであろう。数学ないし諸科学と芸術とは全く相反し、その相互の関係はかつて存するところはない。全然無関係なものであろうと。あるいはそうかもしれない。大体においては、そういう傾向もあるであろう。現にわが国には美術界に竹内栖鳳等を初め多くの有力な巨匠があるが、これらの美術大家が数学なり、他の科学なりに通じているという事実はない。九条武子、柳原白蓮等の女流歌人にしても、同時に科学者ではない。普通に芸術家たると同時にまた数学者、科学者たる者を求めるならば、全然絶無ではあるまいけれども、おそらく絶無に近いであろう。

 

芸術賞

国民文芸会が昨年度の演劇賞金を土方与志君に贈つたことは正に当を得た措置である。土方君は高の知れた賞金ぐらゐを貰つたところで何にもなるまいが、かういふことは、もつと世間が問題にしてもいゝ。いろいろの弊害が伴ひ易い制度ながら、兎も角も芸術と社会との接触は、こんな年中行事からでも助長せられるものである。芸術家の私行を云々する興味よりも、一段の光彩と活気とを所謂「文芸消息」に与へることは確である。

パイプについての雜談

 

 僕の愛用のパイプといつたつて、普通のブライヤアのやつで、ちつとも自慢するほどのものぢやない。何しろ、これを買つたのは、まだ僕が一高の學生だつた時分のことだ。その頃、僕のほかにもう一人、僕と同じやうに怠惰な學生が居て、そいつがある日、僕に向つて非衞生的な化學實驗室から逃出して草の上に寢ころびながら、パイプをふかふか吹かすことの樂しさを、教へたものだ。早速、僕はそいつの弟子になつた。そしてそのためには、つまり、パイプを手にいれるためには、讀みもしない原書を四五册賣り飛ばしさへすればよかつたのだ。思へば、僕もあの頃はひどく怠け暮らしてゐたものと見える。あの頃のことを思ひ出さうとすれば、いつもその友人と、草の上でパイプを吹かしてゐる光景しか浮んでこないのだから……

 

ハイネが何處かで

 

 ハイネが何處かで、自分は獨逸人の頑固なのは大嫌ひだが、獨逸語は大好きだ、詩の言葉としては世界中で一番美しいだらうといふやうな意味の事を言つてゐたと記憶する。この頃、僕も獨逸語がすつかり好きになつてしまつた。しかし僕の獨逸語ときたら、少年の頃、習つたきりなのでほとんど忘れてしまつてゐるが、それでも辭書を引きさへすれば、どうやら意味ぐらゐは通じる。そんな興味も手つだつてか、この頃獨逸語の本を讀む時ぐらゐ愉快なことはない。いま、リルケを讀んでゐる。そのうちヘルデルリン、ノヴァリス等も讀まうと思つてゐる。

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