恒例の「センター試験」を皮切りに、約1か月に及ぶ「大学受験シーズン」が幕を開ける。憧れのキャンパスライフを夢見て最後の関門に挑む景色は今も昔も変わらないが、「制度」は戦後65年の大学入試の中で大きく変化してきた。「1期校」「2期校」と呼ばれた1949年~78年の大学入試を振り返ってみよう。
1947年の教育基本法制定により、旧制高校や師範学校が統合されて、4年制の大学が誕生した。今に至る大学受験の戦後史は、この年から始まる。国立大は1県1大学を原則に新設。評論家の大宅壮一が命名した「駅弁大学」という言葉が流行した。
50代後半以上の読者が記憶する大学受験は、入試の日程に応じて国立大を1期校、2期校に分けた「1期校?2期校制」であろう。東大、
ニューバランス スニーカー京大、阪大などの旧帝国大学のほとんどが1期校となったため、「1期校への進学率」が高校の評価に繋がっていた。進学校で猛勉強したという63歳のAさんが振り返る。
「当時は偏差値などの入試情報がない。そのため進路指導も“学年で20番以内だと東大、50番以内で早慶”という乱暴なやり方でした。成績下位だと『予備校へ行け』といわれる」
高度経済成長の到来や、団塊世代の登場を背景に、私立大への進学率も上昇。1960年代には、早慶2強に加え、明治や青学など人気私立7校の頭文字からなる「WKMARCH」などの造語が誕生した。その名付け親であり、受験生の愛読書『螢雪時代』(旺文社)の元編集長、代田恭之氏が述懐する。
「当時、ヒットした洋画『戦場にかける橋』のテーマ曲『クワイ河マーチ』の語呂合わせです。関西で『関関同立』という造語ができたのもこの時期。大学志願者が増えるにつれ、人気中堅私立が現われ、『日東駒専』という言葉も、1970年代半ばに編集部で考えました」
また、それまで男中心で殺伐としていたキャンパスに、女子大生が闊歩し始めたのも1960年代。1962年、早大教授が雑誌の対談で、
ニューバランス レディース「花嫁修業のつもりで大学に来ている」と嘆いたことから『女子大生亡国論』がメディアで盛んに喧伝された時代だった。